最新の記事一覧

02/21

薬物に溺れていたころ、周りはみんな敵でした。


電車に乗っても。

テレビに出ている人たちも、みんな気に食わない。


嫌いな人だらけの、世の中まさに地獄でした。



服役して、薬もすっかり抜け、そんな感じだったことが記憶としてだけ思い返されます。




今、待ちゆく人も、テレビに出てくる人も、ラジオでしゃべっている人に対しても

嫌い、という感情がわかずに

むしろ 好きになっています。



会う人、見る人 好きな人だらけ。


これって なんて幸せなことなんだろう。



周りが変わったわけでは無いのに、感じ方ひとつでこの幸せ感。



こうなったら、もっともっと無条件に人を好きになってやろう。


もっともっと幸せを感じることができるはずだから。



本当に見方次第なんだなあ、と実感しています。

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02/20

受刑中に思いついたことを書き記していたノートのことを思い出し

久しぶりにパラパラめくっていると

「手の甲を見ると気分が落ち着く」

と書いてありました。


手の甲というか、手を膝の上だったり 机の上だったりに置いて

自然に目に入ってくる部分

親指と人差し指の付け根と手首の間の三角形をじっと見つめていたら

なぜか 「今」 に意識が縛られて

過去と未来から解放され

自分が置かれている(と思っている)状況からも切り離されたように

思い悩むこともできなくなり


その心地よさにしばらく身を預け すっきりする


こんなことを時折やっていました。

一種の瞑想だと思います。


極限状況の中で、何とか気持ちを落ち着ける方法を編み出そうとして

偶然みつけたんだと思いますが


今やってみても 効果抜群です。

02/18

オリンピックで活躍する選手たちを見ながら

歓喜する一方で




前に進む勇気すら持てないままで

世の中から置いて行かれている自分



試行錯誤をつづけてきたけれど

何をどうしたらいいのかも分からない自分


そういったことに いつもより焦点を当てて

息苦しく、切なくなっているのは

あなただけではありません。



前に進まず、今 そこで立ち止まっていることには

必ず意味があります。


動いていないと思われる状況であっても

実は、確実に動いています。


何もできなかったと思っている一日でも

誰に会うこともなかったような一日でも

いろんなことを考え、できることをやって

懸命に生きたのではないでしょうか。


懸命に生きる


それで何も成長が無いはずが無いのです。


行動できないのなら

それが 今 あるべき状態なのです。


どうあれ、今日やるべきことはやったのです。



そして、自分が目指す理想に 

また一つ近づいたのです。








02/15

拘置所や刑務所で、他の覚せい剤中毒経験者に出会うと

中毒真っ最中の奇妙な行動が、自分だけのものではなかったんだ

ということに気づくことができます。



猜疑心が強くなり、みんなが敵に見えて引きこもる

とか

何日か眠らない、とか 顔色が悪くなる

とかは、やったことの無い人でも知っているような事ですが



機械類を延々と分解し始める そして元に戻せない


というのを、何人もの人が経験しているのには、一同少々驚きました。

自分だけじゃなかったんだ、と。



さらに、誰しも覚せい剤を止めようとする中で

ある程度の期間止められたら、うれしくなって

自分へのご褒美として また打っちゃう

結局また 一からのやり直し その繰り返し

という経験があるのにも、淋しい共感を感じました。



この違法薬物は、打ってから 次に打つまでの期間が長ければ長いほど

気持ち良さだったりの、その効果が増す

ということを、みんな経験で知ってしまっているので

非常にやっかいなことになっているのです。


断薬が成功すればするほど、次に打つことへの期待感が高まる



出所して すぐまた逮捕される人も多い、と担当の刑事さんが言っていたのも

そういうことなのでしょう。



私は 仲間との会話の中で そういう傾向を知れて 幸運だったと思っています。

そのご褒美は ご褒美ではない  

と、自分の気持ちにツッコミを入れることができるようになっていて

救われました。



この、ご褒美として またやっちゃう 繰り返しは

他の依存症にもあてはまるのではないでしょうか?


しかし、克服しようと思っている人が ご褒美に手を出そうとしたとき

これこそが依存症、と分かっていれば 

自分の気持ちを客観的に見ることができて、ストップをかけるという選択があることにも

気づけるような気がします。



私は今も、これからもずっと 断薬中の身。

ご褒美はほかに見つけて生きていきます。



02/14

毎日あれこれ書くようにはなりまして、自分の考えを整理できるようになってはきましたが


自分の置かれている状況や

何かと先延ばしにして日々やりすごしているダメな自分に

ぐわっと嫌気がさしてきて


いつにも増して自己嫌悪、焦燥感に押しつぶされそうになることがあります。



今日はそんな日です。



逮捕後、受刑中から出所の時

その後、今に至るまで

多くの人に迷惑をかけ、助けてもらってきました。

励まされながら。



にもかかわらず、前に踏み出すことへの目に見える障害はないのに

仕事にも復帰せず(できず)

ただ一応生きている、という毎日の繰り返し。



昔の自分が一番嫌っていた姿に

今、なっているのだけれど

それを なんとかして認めまいとしている自分。



生きている意味あるのか?


と感じながらも

死ぬ勇気はさらさら無く


ましてこれ以上周囲に迷惑をかけたり

特に今も元気な実母をこれ以上悲しませるという親不孝だけはしたくない

養母の死に目には会って、葬儀もきちんと行いたいし。



友人達には本当に感謝しています。

だけど、こういった気持ちを告げたところで

私に対してどう対処すればいいのかと、きっと頭を悩ませ

さらなる迷惑をかけてしまう。



結局は、自分で乗り越えなきゃいけないことだと

いやというほど分かっています。



孤独と言ったら みんなには悪いから絶対に言いたくはない。

だけど、とてもさみしい。







少しはスッキリしたかも。








02/13

刑務所では懲役刑を執行するための工場があります。



各一般工場ではそれぞれ業者から依頼を受けて製品を組み立てたり

炊場工場のように刑務所内の需要を満たす生産を行う特殊なところもあったりします。




どの工場にも担当と呼ばれる、いわゆる工場長のような刑務官と、それを補佐する副担当の刑務官がいますが

私のいた工場の担当と副担当は、考え方が明らかに違い、はっきり言えば仲が悪く

二人の間にはいつもピリピリとした空気が漂っていました。




ある朝の訓示の時、担当は


根拠の無い自信を持つな。自信というのは、何かを達成した時に初めて生まれるものだ。


という趣旨の発言をしました。




その日の作業中、二人っきりになったときに副担当は


おい、〇〇(私)、自信に根拠なんかいらねえからな。

自信もって仕事しろよ。 

作業以外の生活もそうだからな。



と、まるで正反対のアドバイスをくださいました。

私は普段から副担当派だったし、まさに同じことを感じていたので

笑顔で 「はい!」 とうなずきました。





そもそも、自信 自体実態もなくあやふやで

人によって 簡単に生まれることもあれば

どれだけ実績をあげてもなかなか生まれない、ということもあります。



確かなのは、自信をもってことに臨むとうまくいくことが多く

それがまた自信となり、習熟の速度も上がる


自信がないと、失敗への不安が先に立ち

普段できることすらできなくなることもある。


ということです。




心が病んでしまった経験のある人ならば、漠然と自信を失って

それまでできていたことができなくなってしまったり

何も行動できなくなってしまったり

身動きのとれない状況を理解しやすいかと思います。



心が平常に近づいてくると、できなかったことが またできるようになります。



自信 というのは、漠然としたものですが

とても大きな力となり得るものです。



それは、思い込みではありますが、ちょっとした心の調整で

大きな力を生み出すことができることを示しています。



心の中は誰にも見えません。

根拠の無い自信を持とうとしていることが、誰かにバレることはありません。

お金もかかりません。

罪に問われることもありません。




今日、副担当を思い出したことで、そんなことを思いました。

私は、失った自信を まずは心の調整で取り戻していこうと思います。




副担当は、私が出所するとき 忙しいのにわざわざ出口まで来て見送ってくださいました。

車に乗って刑務所を離れるとき、少し離れたところで彼に思い切り手を振りました。

彼もドラマの別れのように、大きく手を振り返してくれました。




刑務所内の刑務官と受刑者という関係の中では、絶対にありえないやりとりでした。


あの時 手を振る彼を見えなくなるまで見続けながら、本当にシャバに戻ったんだと実感しました。





一回りくらい年下のはずの 刑務官らしくない副担当、元気かな。

ありがとうございました。















02/12

営利以外の覚せい剤事案において 懲役刑の判決をもらい、刑務所に入るということは

その前にも一度逮捕されて 執行猶予の判決をもらっていることを証明しています。



つまり、みんな 最低でも2度目 なのです。



捕まって 2か月ほど留置に入り、地獄の日々を送り、判決をもらい

もう二度とこんな経験はしたくない

ていうか、次は刑務所に送られる



警察とか検察での取り調べでも さらには裁判でも 心の底から本心で

二度としません、いや、できません、と言っていたはずなのに

また手を出して、刑務所に行く。



これが 覚せい剤です。



もうやらない という誓いは確かに本物でした。



みんなそうだったと思います。



でも やってしまった。



意志ではコントロールできないもの。

そこに地獄がまっているとわかっていながら 地獄に入り込んでしまうもの。



一度やってしまったら、一生背負っていく 依存症。




我々は、何かの拍子で また手を出してしまう危険性を抱えながら、現在も生きています。



これからも ずっとです。



足を洗ったわけではないのです。



今、私が覚せい剤を打たずに過ごしていられるのは 

たまたま そのほうが幸せだと認識できているからに過ぎません。



再び もう一人の自分に飲み込まれることのないように


自分の心を客観的に見て 判断を急ぐこと無く


冷静に、健全に


自分を制しながら生きていこう。




そう誓います。



02/11

出所したての頃、あらゆることが新鮮で、ありがたく感じていました。


しかし、それから半年が過ぎ、あんなにやたらと感じていた自由への感謝と感激を

忘れてきている自分に対し 自戒の意味を込めて

シャバの素晴らしい点を挙げていってみます。


お気づきかと思いますが、これらは私が刑務所生活を送ったからこそ感じ、気づけたことではありますが

実は、皆さんのように 真っ当に生きてこられた方々は ずっと権利として持ち続けてきた事柄なのです。



風呂に毎日入れる

長湯ができる

銭湯でおしゃべりができる

食事中おしゃべりができる

調理ができる

好きな時にお菓子を食べられる

食事のメニューを選べる

タバコが吸える

好きなだけ運動ができる

スマホで連絡を取り合える

車の運転ができる

好きな映画を好きなだけ見られる

本を自由に手に入れることができる

部屋とトイレが分かれている

朝も夜も、決まった時間以外に起きていい

エロ動画が見れる

電車に乗れる

髪を伸ばせる

好きな服を着れる

時計を見放題

普通に女性がいる

墓参りに行ける

野球を生で見れる

言いたいことが言える

いつでも歌が歌える

さんづけで呼んでもらえる



永遠に続けられそうなので、ここでひとまず止めますが

これらのことを 我々はごく当たり前のこととして生きてきました。



しかし、我々は 見方を変えることによって 幸せを感じる自由も

持ち合わせていますので、当たり前だと思っていたことに感謝を感じ

その都度幸せを感じることも許されています。


やってみると分かるのですが、人は少なくとも感謝している間、不幸を感じることができません。




幸せとは心の状態がすべてですので、もう一度初心に帰り、いろんなことに感激し

ありがたさを感じていこうと思います。



そうして気分よく過ごす時間を増やしていくことで

幸せを引き寄せることにもつながるのだと思います。


真っ当に生きてこられた皆さんは

法に背くような悪いことをする選択をせずにここまできた ご自身への誇りと感謝も

リストに加えてあげてください。



02/09

刑務所内では、受刑者同士の会話の内容で

出所したらまず何をしたいか?

というのが定番です。


なんでもいいから好きなものだけを好きなだけ食べたい

とか

出たいと感じるまでゆっくり湯船につかりたい

とか

家族旅行に行きたい

とか


まあ、そのへんは良くある答えなのですが

真面目に SMクラブに行きたい

と言った人がいました。



彼はいわゆる M(マゾ ドエム)だそうで

それしか思いつかない、とまで言っていました。

当然 何がそんなに良いのか?

という話になります。


「皆さんには分からないと思うけど、怒鳴られるだけで、ゾクゾクするんです。

あ、でも ここ(刑務所)でも怒鳴られまくってますね。

僕、先生(刑務官)に怒られても、そんなに嫌じゃないのかも。」


なんて言っていました。


刑務所では、動作ひとつ決められたようにできないと

新人であろうがベテランであろうが 刑務官から 非常に厳しく、大きな声で注意されます。

それがそこでのやり方です。



私は最後までそれに慣れることなく、注意されないよう 細心の注意を払って生活していました。



しかし、その M の彼にとっては

どうやら初めから我々のように、それを苦痛には感じていなかったようなのです。


刑務所サイドからしたら、想定外なのでしょうけど。




今朝 この話を 思い出して 思うところありました。



今、生きていて 起こったら嫌だなあ と思うこと

とても ひとつやふたつではありませんが


それは 起こるときには起こるし また、起きないのかもしれません。


考えるだけ無駄だ  でも考えちゃう

そんなときは ドMの彼を参考に

予測しちゃうトラブルを肯定的に捉えてみることにしました。



私の場合ですが、すべての出来事には必ず学ぶべきことがある

すべては必要だから起きている。 無駄は無い。

むしろ 得しかない

というふうに、自分に言い聞かせてきたことを 今こそ と、応用して


思いついてしまう心配事を 飛躍のチャンス

と強引に考えてみました。



すると、強引だったにもかかわらず

なんか それらが ゲームに出てくる障害

くらいのことに感じられるようになりました。



今、朝よりも格段に心が軽くなっているのを感じます。












02/08

私の母(養母)は認知症で、今は専門の施設に入っています。

会いに行けば「あら、どうしたの?」と明るく笑顔で迎えてくれ、会話も普通にできます。

少し話しただけでは、認知症だということもわからないくらいです。



ただ、記憶力が著しく低下したのと、物事の理解力もなくなってきました。



世間的には 認知症というと、家族も本人もかわいそうな感じで見られがちなのですが

母はとっても幸せそうで、学ばせてもらう点も多くあります。



母は、心配するということから解放されました。

私たちは、普段生活している中で あれやこれやと心配し

心配が心配を呼び、がんじがらめになって、結局動けない、なんてことがあるのではないでしょうか?

私にはあります。



また、母は過去を悔やむ ということからも解放されました。

母は転んで骨折し、その間に認知症が進行し

退院のタイミングで自宅に戻ることもなく施設に入居したのですが

骨折したことも、入院したことも 彼女の記憶にはありません。



長い人生、おそらく こうしておけばよかった ということもあるでしょうし

朝の失敗でその日ずっと自分を責めてしまう、ということも 我々にはあるでしょう。



しかし、母にはそれが無い。


まさに 「今」 を生きています。



過去は単に記憶であり、未来は予測に過ぎない。
どちらも頭の中だけの幻想である。


という旨、書籍かなんかで読んだことがあるかもしれませんが

その幻想を取り払うとどうなるか

ということの答えが 母の天真爛漫な笑顔 なのです。



認知症でない私たちは、過去をかえりみて予測し、予測に基づいて行動しながら社会生活を送る必要があるのですが


過去と未来を、単なる頭の中だけの幻想だと見破ることができます。


絶対的な事実なんかではなく、他の人からみたらまた違ったように見えている

そもそも他の人にとっては存在すらしないかもしれない



それを分かっていることの重要性を、母は教えてくれているのでしょう。



ありがとう。

02/07

前述の同級生が、LINEのグループ内に

度々空気を読めない発言やら 自分本位なコメントやらを投稿してくるので

いい加減頭にきていたのですが



彼にも彼なりの人生があって、彼だけの境遇や経験が今の人となりを作り上げているのだから、と

それに、彼も自分の発言に責任をもって、それなりの覚悟のうえで投稿しているのだろう、と。

それを否定することは、彼の人生を否定することになってしまう、と。

だいたい善も悪もそもそも存在せず、人がそれに対しそういった意味を与えているだけの話で

そういったコメントがただ彼から発せられた、ということだから

イライラしたりする必要なんてないんだよな、と。



しかも自分は悪いことして捕まって、たくさん迷惑かけたんだから、彼に意見するなんて百年早い。



とまあ、いろいろ自分に言い聞かせたところで 落ち着ける訳ではありませんでした。

許せない自分を許せなくなってきたりもして。


しかし 実際問題、生きていれば嫌悪感や拒絶感というのは抑え込める類のものではありません。



感情も存在すべくして存在しているのでしょう。




さてそこで、無い知恵を絞って編み出した作戦。



ウザいコメントにいちいち反応せずにやりすごせたら

徳を積んだ、ということにして そのたびに1ポイントゲットする



というルールを自分に課しました。


たまったポイントから得られる(とされる)ご利益は、同志で分かち合う、とも設定して

ちょっと周りを巻き込んじゃいました。

イライラしていたのは私だけではなかったので。



すると、今日から 彼のコメントが待ち遠しくなってきました。


彼が悪いわけではなく、私と考え方で違う部分があるだけのこと。

私にもいろいろあったように、彼にもいろいろあったんだろうな


なんていうおおらかな気持ちにもなってきています。




出会ってからおよそ30年。

我々が話す内容のくだらなさは、あの頃のままです。


おおらかになって そんな仲間がいてくれることに あらためて ありがたく思えるようにもなってきました。

02/05

大学の同級生が 自分の名前のせいで、これまでいかに不利益を被ってきたか

そんな名前をつけた親を怨む旨の主張をしていたのですが

それに対して強い違和感を覚えたものの、私も受刑中に亡くした父親には敵対心しか持っていなかったので

何とも言えない悲しさだけが残りました。

(尚、我々は40代半ばを過ぎています)



私は特に大人になってから、上手くいかないことがあると、親の育て方のせいでそうなったんだと・・・・

鬱やパニック障害にかかった時も、育てられ方がいけなかったんだと。

親が倒れて実家に戻ることになったときなんか、それ見たことかと

なんて身勝手な親なんだと・・・・

違法薬物に手を出したのも、逮捕されたのも。

心の奥底では、本当は違うんだろうな、っていう部分もありましたが

とにかく父親のすべてを否定しながら生きてきました。



そんな私の遅すぎる転機は、出所して 親戚から初めて、父の私に対する思いを聞かされたときでした。





両親は、自分たちで子供を作ることができないことで、かなり悩んでいたそうです。

そんな中、父はどうしても子供が欲しいとの思いが強くなり

母の妹夫妻に、次の子供をもらえないかと頭を下げました。

その子が私です。


そこまではなんとなくは聞いていましたが、父の弟である叔父から、その叔父夫妻にも
次の子供を譲ってほしいと頭を下げていたと、そのとき初めて聞きました。

その後、その叔父夫妻の子供は妊娠したものの流れてしまったので、母の妹の方が授かった男の子を譲り受けることになったようです。

私と父のぎくしゃくしていた関係を知ったうえで、叔父が強調していたのは

そこまでして欲しかったまさに待望の子供が私だということでした。



他にもたくさん父の話をしてくれましたが、それだけで充分でした。



実の親でないことが、子供の不利益にならないように、どう接し、どう育てていくか

ということも常に模索しながら、甘やかすことなくちゃんとした大人になるように

結果厳しく育てられたのも、納得がいきました。


私には決して口にしませんでしたが

私が 勉強もそこそこちゃんとやって、まあまあ有名な大学に合格したことを

誇らしく思っていてくれたそうです。


その後私は、父の思惑を外れて好きなことを仕事にしていくのですが

その時の衝突も、私のことを心配してくれていたからなんだよな、と

すんなりと受け取れるようになりました。



申し訳無いというより、ただありがたい、という気持ちでいっぱいになりました。




思春期が終わる前に反抗期を終えるという親子関係もあれば

自分の子を授かって、初めて親の気持ちを理解し感謝できるようになった

という例もあります。



形態は様々ですが、人はいつか親のありがたさに触れて、感謝する時を迎えるようです。



結局、親の愛というのはどこにでも変わらず存在するようです。



私はようやく反抗期を終えて、心がものすごーく軽くなったのを感じています。




こういうことを思い出させてくれた同級生よ、ありがとう。


そんな彼の名前はとても縁起の良い、語呂も良い素敵な名前です。



01/10

何もやりたいことが思い浮かばないとき

ああなりたい、こうなりたい という具体的な絵も描けないとき


自分には引き寄せの基本もできない、とあきらめてしまう人もいるのではないでしょうか?


私もそうでした。


そんなとき、出会った言葉が

 「感謝は最強の感情」

というものでした。



もはやできることは何でもやっていこう

という状態だった私は、とりあえず思いつくことに感謝することにしました。


親、兄弟、親戚、友人等これまで関わってきた人達

そして今生きていること

食事がとれること

住むところがあること

テレビが見れること


それまで気づかなかったことが、実はとてもありがたいことなんだと、感謝するネタはどんどん溢れてきます。



そのうち感謝癖がついちゃいます。


感謝しているとき、その人の波動は感謝の波動となり


これを引き寄せに置き換えると、感謝する状況をどんどん引き寄せていく、ということになります。



周りに感謝することだらけの状況



これってとても幸せなことなんじゃないでしょうか。



引き寄せ関連の本に書いてあることに対して


それができたら苦労しないよな


なんて投げやりになる前に


意外と簡単にできる  感謝する  ということを実行して

決して損は無いと、私は思います。




皆様が 感謝すること に囲まれて、幸せな日々を送れますよう、心よりお祈りいたします。





01/09

引き寄せに関する本はたくさん出版されていて、多くの人が興味を持っていることが分かります。


私も逮捕される以前から、何冊ものその類の本を読ませていただきました。



引き寄せの基本は、なりたい現実を思い浮かべ、そうなった時の感覚を味わうと、そのなりたい現実が引き寄せられる。


実現したときの波動に今なることで、それが現実化される。



というものです。


私もそれを理解し、実行してきましたが、さて、特に私がうまくいかなかったのはなぜでしょう?




結論から言うと、完璧にすべて実現されています。


完全に希望とは逆パターンですが。



覚せい剤を摂取すると、遅かれ早かれ脳内物質のバランスが崩れ

普段ではありえない恐怖を感じたり、極端に疑心暗鬼になったりします。


見える世界も変わってきます。



理由なき恐怖や不安を常に抱えながら

なりたい現実なんて想像すらできず、反対のなりたくない現実ばかりが浮かんできて

そこに焦点を当て続けることになります。


しかも強い感情を伴っていますので、簡単にそのなりたくない現実の波動をまとってしまいます。




実際、どのような状況を恐れたのかといえば

逮捕されること

そして自分がやっていることを人に知られること。



後ろめたさからくる対人恐怖から

人目を避け、人とかかわりたくないとも思っていました。



これからの人生まずいことになっちゃう



というのもありました。

思い返せばまだまだあるのでしょうが。





すべて現実となりました。


なりたい、なりたくないにかかわらず、思い描いてその感情を体感すれば

現実となります。


常に想いは実現しています。


どうせなら、明るい未来を現実として引き寄せたいものです。



書籍内外で よく言われる、


楽しい気分でいましょう


というのには実に説得力があります。



良い気分でいると、不思議と悲観的な考えが思い浮かびません。


楽しい気分の中で思い描いた素敵な現実が実現した際の

喜びや達成感、安堵の気持ちを存分に味わって


それが現実となり

またさらに気分良くあれやこれや実現していく。


こっちの楽しいスパイラルの中にいようと思います。





皆様が 楽しいスパイラルの中幸せに過ごせますように。












01/08

世間的には正月も終わり、本格的に今年というものがスタートしました。



出所からおよそ半年が経過した私に、表面上変わったところはありません。



毎日本を読んだり、瞑想したり、たまに友人と会ってみたり。



心に漠然と居座る不安な気持ちをどうにかしようと

これを消し去って幸せに生きていくにはどうすればいいのかと

かなり必死にできることを探してはやってみました。




現状、基本的に不安な気持ちとは変わらずに同居したままです。


ただ、唯一変わったのは、その不安な気持ちを抱えていることを

自身で認められるようになったことです。




認められるようになってから、これまでの人生、特に薬物中毒に陥ったことや


逮捕され、受刑したこと、それらの中でとてつもなく苦しみ、もがいてもがいて

それでもどうすることもできないという、自信を持つということがどういうことかさえ

思い出せなくなる、自業自得の地獄の経験。



しかし、そんな経験をしたことで、とても大事なことに気づくことができたと

真剣に思えるようになってきました。




苦しんでいる人の気持ちに寄り添えるようになりました。


なんとかしたいけど、できないという苦しみ。


(精神的なものを含め)病気に罹っている人の苦しみ。


引きこもっている人が感じているであろう苦しみ。


不慮の事故等に巻き込まれてしまった人の苦しみ。





もし、自分が順風満帆なままの人生を送っていたら

それらに気づきもせず、気づこうともせず

冷めた目でそういった人たちを 「弱者」 扱いしていたことと思います。



自分でどん底まで落ちて

そんな高慢さを、無理やりのように奪われ

後にはあらゆる人に対しての慈しみ、尊敬が残りました。



だからどうだ、ってことでは決してないのだろうけど。

そうなりました。


それが人間にとって大事なことなのかどうかは知る由もないのですが


それに気づき


自分に対しての否定的な気持ちも和らいだ気がしています。



和らいだら、再びこうして気持ちを綴ってみようという気持ちにもなりました。





ある人が私の素性を知ったうえで 「人生に無駄なし」 という言葉をくださいました。



その時は、そう思い込んだほうがいいんだろうな、くらいに感じていましたが


年が明けた今、気持ちよくその言葉が腑に落ちています。




よし。一歩前進。




今年、皆さんが楽しく、幸せに過ごしていけますよう、心よりお祈り申し上げます。


軽くなる

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08/17

問題(と思われるl事)が無くなった訳ではない。

なんなら、また新たな心配事見たいなものが現れている。


そんな今日、「悩んでいるという事を認めよう。」 という言葉が思い出されて、ふっと軽くなった。


いつどこで読んだ何の本から学んだ言葉かは、とうてい思い出せないが。

忘れっぽくても、結構頭には残っているものなのだ。



これが、感情を客観的に見てみる、ということなんだな。
さらに自分を認めてもいる。


客観的に見ていると、自分が 「今」 だけに存在していることも実感できる。



そうしているうちに、「無駄なものはない」 ということにも気づかされる。

この問題(と思われること)によって、自分の(負の)感情とつきあう術を会得することができたのだ。



誰に対して、という訳ではない、ただ「ありがたい」 という気持ちがわいてきた。


目的

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08/17

新幹線に乗ったり、高校野球を観たりして、それで物理的に何かが変わったわけではないのは重々承知している。



しかし、帰り道、足取りが軽くなっているのに気づいた。


数日前まで考えただけで気が滅入っていた、これからやらなくちゃならない(と思っている)事に対して、なんとかなるのかも、という気持ちが大きくなってきている。


行ってよかった。


出所直後だからとか、やるべきことがまだまだあるからとか、行かない理由はいくらでもあった。


そんな時、「やりたいと思うことをせよ。」 という、今まで読んだ本の中に、これまたよく出てきたフレーズが思い出されて 背中を押してくれた。



別に仕事につながるというわけじゃなくても、これからの人生を左右するような何かが見つかるなんて期待をするようなことでもないけど、ただのレジャーだけど。

そんなこと考える必要なんてなくて、ただやりたいと思ったことをしてみればいいんだ。


本当に。



確実に良くなっていることを実感しながら、今日もネットカフェにて。



08/16

甲子園に行ってきた。

甲子園は今や連日満員である。

何万人もの人で埋め尽くされるスタンドでも、そこにいる人の数だけ、それぞれの甲子園がある。



どちらかのチームを声を枯らして応援する人、

ただぼんやりとビールを片手に俯瞰で甲子園の雰囲気を楽しんでいる人。

そのビールを売っている子。

かちわり を売っている子。

近くに住んでいるので、気軽に訪れた人。

毎年楽しみに泊りがけで来てる人。

彼女とデートで来た人。

息子の付き添いで来た親御さん。


初めて来た人。

毎日来ている人。

飽きちゃってる人。

野球が好きでたまらない人。

本当は野球にはいい思い出がない人。

県予選で負けちゃった球児。

明日試合する予定の球児。




こんなにたくさん人がいるのに、誰一人同じようにこの球場を見てはいない。


テレビを見ている人たちも、ネットで試合の経過だけ追っている人も。


それぞれが、それぞれの世界で、それぞれの見かたで楽しんだり、そうでもなかったり。




自分がこの現実に対して感じているこの感覚、見かたは間違いなく自分だけのもので、

世界中どこを探しても全く同じ世界観を持っている人はいないんだ。


そう思うと、目に見えるもの全てが愛おしく思えてくる。

積み重ね?

カテゴリ:未分類

08/11

昨日は一度心が軽くなっていったのを実感したのだが、今朝目覚めると、その感覚が薄れていた。

しかし、昨日の朝よりは現実に対して感じる恐れや不安は確実に減少している。

このように、一歩一歩進んでいくのだろうか?


できることなら 一瞬にして 楽になりたい、というのが本音ではある。



そんな中、こうしてキーボードをたたいて内側をアウトプットしているときは、心穏やかである。


集中して、現実(と考えているもの)に意識が向かなくなっているからであろう。

しかもなんだか ウキウキ(ワクワクでもよいが)する。


現実なんて、こんなもんなんだろう。

ちょっと意識がそれただけで、違って感じられて、心配事 が実際にはあるかどうかもわからない(たぶんない)俗に言う 「幻」 だと見抜くことができる。

このキーボードを叩くことの集中は、瞑想 で意識を内に集中するのと同じなのだろう。


現実というのは捉え方次第、とさかんに言われているが、全く持ってそのとおりである。


というか、捉えなくてもいいんだ。


集中して、意識を心配事から外すだけで、全く違う景色が見えてくる。

冷静になって、問題が問題でないと見破ることができる。


しかも、集中しているということは、きっとそれがやりたいことだからであろうから、「やりたいことをやる」 というよく聞く言葉にも対応している。


「やりたいことをやる」 というのは、こういう意味でも大事なことなのだ。

こうした小さな「やりたいことをやる」の積み重ねで、勝手に考えていた不必要な「世間体」や「常識」を見破りつつ、今はまだ見つかっていない「本当にやりたいこと」が見つかってくるのかもしれない。


そう思うと、今日もまたひとつ心が解放された。

08/10

ここからは本当にリアルタイムである。

刑務所帰り、40代後半にして仕事のあてもなく、家族も持たず、人生に不安しか感じない。

しかし、今の自分の状況は自分で引き寄せたもの。
まずはそれを認めてみよう。


薬物を使用していた期間もその前も、確かに不安しか感じてなかった。
捕まりたくない、仕事なんかできる状態じゃない、と

ちゃんとそんな不安は今現実となって目の前に現れていた。


引き寄せの法則は確実に、私にも平等にはたらいていた。


であれば、引き寄せで著名な方々のごとくやりたいことをやって、幸せに生きていくこともは、当然自分にも可能である。



現在の状況を自分で創ったことを認めると、逆に希望がわいてきた。


希望を感じると、考え方にも影響が出る。

現状の中にも悪いことばかりではない。

仕事をせずとも、しばらくは生活していくだけの財力がある。

母親は、自身居心地の良さそうな施設に入ることができて、ほぼ手はかからないし、以前よりずっと幸せそうだ。

自由がある。刑務所にいた経験があるから、強くこの自由を感じることができているのだろう。

片付けはなかなか進まないものの、帰るべき家がある。
家以外にも帰れる友人宅がある。


これから自分がどうなっていくか、いきたいのかは自分で選ぶことができる。

人間って単純だなあ、と思うが、こういったことを意識して考えるだけで幸せを感じ、心軽くなっていくのを実感できる。


ここから自分の人生がどう変わっていくのかを楽しみに生きていこう、と心に決めた。

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